「ありがとう。もういいよ。仕事辞められ。」
ずっと言えなかった。ずっと飲み込んでいた言葉。
でも、もう限界だった。
夫の体は悲鳴を上げていた。
家族のためにと頑張り続けた夫が、目の前で崩れていくのを、私はこれ以上見ていられなかった。
そして、それは私自身の人生の大きな転機になった———。
はじめまして!
このサイトに来てくださり、ありがとうございます。
たかみ と申します。
私は現在、会計事務所でパート勤務をしています。
今回の記事では、
どうして在宅ワークを始めようとしているのか。
どうして正社員を選ばないのか。
など、私がこれまで歩んできた道のりについてお話しできればと思います。
同じ悩みを持つ方の背中を押せれば嬉しいです!
基本情報
名前:たかみ
年齢:アラフォー
血液型:O型
家族:夫、小学生男の子2人、保育園女の子1人
職業:会計事務所でパート
趣味:ガーデニング、ネットショッピング、アニメ、マンガ
親に期待され“いい子”で過ごした学生時代
10年目の子供として大事に育てられた幼少期
福井県の農家に生まれ、家族は両親と弟、祖父母の6人家族でした。
両親が結婚して10年目にやっと授かった待望の子だった私は、大事に大事に育てられました。
特に母は、「自分ができなかったことを娘にさせたい」という思いを抱いていました。
そのため、私の幼少期は、習い事でスケジュールが埋め尽くされる日々。
ピアノ、習字、そろばん、水泳…。
家にはエレクトーンとアップライトピアノが並び、母の熱意がそのまま形となっていました。
ただ、当時の私は、それを喜んでいたのか、それとも流されていただけなのか、記憶は曖昧です。
母の教育熱心さとは対照的に、父は静かに見守るタイプで、私の行動に干渉することはありませんでした。
警察官だった父親に叱られた記憶は一度もありません。
「悪いことをしたらお父さんに迷惑がかかるから」という母の口癖を胸に、私は親の顔色を伺う“いい子”として育ちました。
親の期待に応えることが、いつしか当然だと思うようになっていたのです。
クラリネットの魅力にとらわれた中学時代
中学生になった私も、変わらず親の期待に応える“いい子”でした。
学校 → 部活 → 塾 のルーティン。
疲れて帰る頃には22時を過ぎていて、そこから宿題に取りかかるのが日課でした。
唯一の楽しみは部活でした。
部活は吹奏楽部に入りました。
小学5年生の頃から、「中学生になったら吹奏楽部に入ってクラリネットを吹く!」と自分の中で決めていました。
(理由は覚えていませんが…)
体験入部では毎日のように吹奏楽部へ行き、もちろんそのまま入部。
迷いなくクラリネットを選びました。
初心者には一番難しいと言われる「シ」の音が意外とあっさり出て、念願だったクラリネットを担当できることになり、部活には、かなりのめり込んでいきました。
コンクールでは代表にはなれずとも、金賞を取ることができました!
あの達成感は今でも忘れられません。
学業とも、ある程度両立できていました。
正直、勉強が好きだったわけではありませんが、親の期待を裏切りたくない一心で勉強をし、テストは学年の「中の上」くらいをキープできていました。
反抗期を迎えることもなく、真面目に勉強と部活に打ち込んだ中学時代。
親の期待に応える“いい子”として過ごすことは幼少期から当たり前だったので、それが自分の役割のように思っていました。
寝ても覚めても勉強ばかりの高校時代、そしてその先へ
高校は私立の進学校に行きました。
唯一不満だったのは、吹奏楽部がなかったこと。
あったとしても、私が通っていた「特別進学コース」では、進学を重視するため部活は禁止されていました。
毎日勉強漬けで、朝学校が開くと同時に校舎に入り、朝勉を始め、授業を受け、夜は学校が閉まる20時頃まで残って勉強する。
そしてまた22時頃まで塾に行き、家に帰ってきて宿題と予習…。
同じことを繰り返す日々。
私の高校時代には青春なんてものはありませんでした。
高校時代の記憶はあまりありません。
唯一の息抜きだったクラリネットを吹くことができず、長いトンネルをただゆっくりと歩いているような3年間でした。
クラスの中でも目立たないように息を潜めて過ごし、あまり友達付き合いも積極的にはしませんでした。
毎日ルーティンを「こなす」だけの生活。
自分がロボットにでもなったかのような気分でした。
私に転機が訪れたのは、受験に差し掛かったときでした。
将来の夢がなく進路に悩んでいた私に、担任の先生が、推薦で地元の大学に行くことを提案してくれたのです。
100人以上いる生徒の中から、2人だけの推薦枠。
「こんなチャンスが巡ってくることはない!」と思い、推薦で地元の大学を受けることを決めました。
目の前に急に現れたチャンスを「なんとしても掴みたい!」と、小論文や面接の練習を毎日行いました。
合格発表の日は、私の誕生日でした。
ドキドキしながらパソコンで結果通知を見ました。
そこには「合格」の文字が!
今までで一番嬉しい誕生日に感じました。
そして、「これで勉強から解放される」とも思いました。
大学が決まってからは、しばらくは何をして良いか分からず、ぼんやりと日々を過ごしました。
勉強から解放された日々は初めてだったので、時間の使い方すら分からなかったのです。
覚えているのは、卒業式の次の日からバイトに行き始めたことです。
結婚式場でのバイトでした。
ホールスタッフとして、お客様のところに料理を運んだり、カフェスペースでドリンクをお出ししたりするという仕事でした。
自分で働いて給料いただくと言う初めての体験はとても新鮮で、これまで親の期待に応え続けた私が、やっと自分の足で歩き始めたスタートだったように思います。
破天荒な弟に救われ、自分の意思を持った大学時代
大学生活は、高校時代の抑圧から解き放たれたようでした。
高校3年間我慢した吹奏楽部に迷いなく入部し、勉強そっちのけで部活に明け暮れる日々。
それでも親は特に私を叱ったりはしませんでした。
おそらくこれには、弟の存在が大きく影響しているのではないかと思っています。
私より5つ下の弟は、当時中学生。
勉強はせず、部活にも入らず、高額な入会金を支払って始めた家庭教師も半年も経たずに止めてしまうという、私とは真逆のタイプ。
親に激しく反抗したり、家を飛び出して帰ってこなかったりと、まさに破天荒な存在でした。
けれども、私には心を開いてくれていて、何でも話してくれました。
弟は、人当たりが良くて友達も多く、ある程度のことはそつなくこなす器用なタイプでした。
私は、弟をうらやましいと思っていました。
- 親の期待に応え、言う通りに育ってきた私。
- 親の言いなりにならず、自分の意思を突き通した弟。
きっと弟が、両親の「理想の子供像」を打ち破ってくれたんだと、私は思ってます。
吹奏楽部では、2年生で部長、演奏会実行委員長、楽譜係を兼務し、部を支える中心的な存在となりました。
人数の少ない部活だったからこそ、みんなで協力して、演奏会を0から作り上げていくという経験ができたことは、私にとってかけがえのないものになりました。
みんなをまとめる存在として駆け抜けてきた日々。
卒部するとき、後輩たちが私たち卒業生を漢字1文字で表してくれて、その文字が「豪」だったことは、自分でも納得できるほど、活発で思い切りのいい性格になっていました。
高校時代を『ロボット』のように過ごした私は、弟のおかげで、大学生活を通じてようやく「人間」になれたような気がしています。
簿記が変えた私の景色
私に新しい発見をくれた簿記
就職活動は北陸の3県で行いました。
親に「近くにいてほしい」と言われたことが理由です。
しかし、親から離れて自立した人間になりたいという思いが強かった私は、あえて福井県以外の就活に力を入れていました。
大学では部活ばかりやっていたため、特にやりたいことが見つけられず、なんとなく「安定してそう」な銀行、証券会社に応募していました。
それと、少し興味を持ち始めていた会計事務所にも。
会計事務所に興味を持った理由は、簿記の資格を取ったことがきっかけです。
当時、簿記、FP、秘書の資格を取ることが、私の周りで流行ってました。
その流れに乗って挑戦しただけでしたが、私にとって簿記の勉強は「世の中の仕組み」を初めて知るような感覚で、知らないことを学ぶ楽しさを感じました。
しかし同時に、知識不足を痛感することにもなったのです。
アルバイト先で給与明細が配られたときのことでした。
給与明細の「所得税」という項目に金額が書かれていました。
「ん?なんかお給料少なくなってる?」
と無知な私は思いました。
これまで親が家計をすべて管理してくれていたため、税金やお金の流れについて何も知らなかったのです。
そのとき、初めて「知らないことは怖いこと」という感覚に陥りました。
親に守られて育った私には、お金の価値や重みを考える機会がほとんどありませんでした。足りなくなった分は親が補ってくれ、家計の心配をする必要もありませんでした。
しかし、簿記を学んでいく中で「親がどれだけ私を守るために苦労して働いてきたのか」という現実を突きつけられたように感じたのです。
私にとって簿記は「世の中を知るための第一歩」でした。
「まずは自分のためにお金について知りたい。
そして、その知識を活かして、人を支える仕事がしたい。」
と思うようになりました。
そんな中で、第一志望だった会計事務所に内定をいただき、私の就職活動は終わりましたが、そこからが本当の学びのスタートとなりました。
築き上げたクライアントとの関係から、地に落ちたメンタル
会計事務所での仕事は、毎月クライアントのもとへ足を運び、月次監査をしたり、年に1回決算作業をするということが中心でした。
仕事は楽しくて、どんどん自分に知識が備わっていく実感ができました。
数字がピッタリ合ったり、疑問点を解決していく爽快感にやりがいを感じていました。
事務的な仕事を行うことは当たり前ですが、クライアントとの会話も大事な仕事でした。
担当していたクライアントは、主に中小企業や個人事業主で、経理を担当している社長夫人との会話は欠かせませんでした。
仕事の話はもちろん、家庭の話、お金の話、最近の悩みやお嫁さんの愚痴など、人生相談とも思える話もたくさんありました。
私は、数字を見る仕事だけでなく、クライアントの心の悩みを聞き、信頼関係を築くことを意識していました。
その結果、上司から「お前すごいな、あの気難しい奥さんと親しくしゃべれるようになったのか。」と言われたこともありました。
そんなあるとき、直属の上司の失態が浮き彫りになるという、大事件が起きました。
企業の数字を預かる立場として絶対に避けるべき事態でした。
私も一緒に携わっていたクライアントだったので「これで関係が終わってしまうかもしれない」と不安に思っていました。
しかし、意外にもクライアントはそのミスを許し、上司に対する信頼を崩すことなく接し続けたのです。
一方で、上司は淡々と状況を説明するだけで、謝罪の言葉をはっきりと口にすることはありませんでした。
この様子を目の当たりにして、私の中にはさまざまな感情が渦巻きました。
クライアントと上司の信頼関係の深さには驚きでしたが、それ以上に「自分たちの仕事とは何なのか?」という疑問が頭から離れなくなりました。
私にとってこの仕事は、第一に企業の数字を預かり、正確で誠実な業務を遂行することだと思っていました。
しかし、上司とクライアントのやり取りを見たとき、それが根本から覆されたような感覚になったのです。
この出来事で、私の、上司への信頼は「無い」に等しくなり、自分がこれまで積み重ねてきた仕事の意義すらも見失うきっかけとなりました。
もちろん、私の考えが全て正しいとは限りません。
上司やクライアントの視点をもっと広く理解するべきだったのかもしれません。
しかし、あのときの私は、この気持ちをどう整理していいのか分からず、次第に精神的なバランスを崩していきました。
しばらくは、なんとか仕事を続けてはいましたが、「クライアントの数字を任されている」というプレッシャーが重く重くのしかかり、頭痛やめまいが起こる日々が続きました。
事務所の休憩室で血圧を測ったとき、数値が200を超えていた衝撃はとてつもなかった。
死ぬんじゃないかと思いました。
実はこのとき、妊娠中だったこともあり、体調面と精神面の負担から仕事を続けるのが困難になりました。
最終的に、出産を機に事務所を退職しました。
この経験から得た教訓は多いものの、仕事に対する信念が揺らいだあの日のことは、今でも忘れることができません。
神様からの大切な贈り物 ~結婚・妊娠・出産~
ライバルから始まった夫との関係
少し話が前後しますが、会計事務所に入社して4年目に、大学時代から付き合っていた人と結婚しました。
夫とは、大学は違ったものの、同じ吹奏楽部ということで知り合い、同じ時期にお互い「部長」をしていたこともあり、自然と関わる機会が増えていきました。
夫は2歳年上で、トランペットを吹いていました。
演奏会に向けて、必死に曲の練習していた私。
それを横目に、楽譜を初見で軽々吹いていた夫。
一瞬にしてライバル心が芽生えました。
最初は「好き」という感情よりも「くそ!負けたくない!」という闘争心が大きかったですが、どんどん夫のことを知っていくうちに気持ちが変化していきました。
夫はとても懐が深い人で、私のことを私以上に理解してくれる人でした。
私のことを理解したうえで、気づきをくれたり、提案をくれたりと、思考を広げて新鮮な考えをくれる存在でした。
性格的には私の方が強いと感じていますが、結局は夫の手のひらの上でうまく導かれているような感覚すらあります。
結婚生活は順調に進み、3年後に初めての子を出産しました。
長男出産:我が子が自閉スペクトラム症。この子は天才です。
結婚から3年後に、長男を出産しました。
毎日ずっと一緒にいて、成長していく姿を1番近くで見ることができ、とても貴重な時間だと感じていました。
「子供が小さい時期って今しかない。こんなに私を必要としてくれるのって、この子の長い人生の中でほんの数年しかない。」
と思ったら、仕事よりも育児を優先したいと思いが強くなりました。
そのことは夫も理解してくれて、しばらくは育児に専念することにしました。
長男の1歳半健診のときでした。
今の月齢でできていることを確認する項目に、ほとんどチェックができませんでした。
育児本は読んでいましたが、息子の発達がそんなに遅れていると言う感覚がないまま1歳半まで来てしまい、健診のにとき現実を叩きつけられた感覚でした。
息子は1歳半にして社会性が低いと言われました。
「こんな小さい子に『社会性』って言葉を使うんだ…。」と思いました。
「私の育て方が悪かったの?」という不安が押し寄せ、涙がこみ上げました。
1人目だったこともあって、心配が増して、何かできることはないかと考えました。
ずっと自宅で育ててきた長男でしたが、同年代の子と触れ合う機会を増やしたいと思い、保育園に入れることを決意しました。
「家だけでなく、別の環境で良い刺激を受けてほしい!」と考えていました。
保育園の年長になると、リハビリテーション病院で検査を受け、自閉スペクトラム症(ASD)と診断されました。
文章の組み立てが苦手なようで、支離滅裂なことをよく言っていました。
「昨日と明日」「あげるともらう」などの言葉を、反対に使っていました。
診断を受けてから、言語の訓練にも通いました。
文章は苦手でしたが、数字は好きな子でした。
服は数字が入っているTシャツしか着てくれませんでした。
数字の他にもハマったことはあり、
3歳で世界中の国名と国旗を覚え、
4歳で日本の都道府県を全て漢字で書けるようになり、
5歳では覚えた国旗を何も見ずに描けるようになっていました。
私は長男のことを天才だと思ってます。(親はみんなそう言うかもしれませんね笑)
苦手なことを少しずつでも減らしてほしいと思いはありますが、長男と接していくことで、得意をさらに伸ばしてあげることはとても大事なことだと実感できました。
現在、長男は11歳になり、学校の勉強だけでなく、英語やピアノ、書道にも興味を持ち、とことん好きなことに打ち込んでいます。
次男出産:自閉スペクトラム症と知的障害。この子のためにできること。
長男が3歳のときに、長男とはまた違った個性を持つ次男が誕生しました。
生まれたときから、くっきり二重にえくぼ、うらやましい顔立ちをしてました。
次男もスクスク成長していましたが、長男よりも成長がのんびりだと感じていました。
1歳半検診でのチェック項目は、次男のときは1つもチェックがつけられませんでした。
「どうして私の子ばっかりこんなことになるの?何が間違ってたんだろう…。」と悩んで考え込んで、落ち込むこともありました。
長男のときにも同じことで悩んでいたのに、また同じことを繰り返している自分に嫌気がさし、自分を責めました。
次男も長男と同じく、リハビリテーション病院の検査で自閉スペクトラム症と診断されました。
そして次男は知的障害も伴っています。
年長児のときには、病院の療育に、週2回、片道1時間かけて通いました。
その年は、自分のことを考えられる余裕なんて、全くありませんでした。
ほとんどの時間を次男のために費やし、私にできることを考えて接していました。
その1年があったからか、次男は少しずつですが言葉が増えて、私が話すことも少し理解できるようになってきました。
乗り物が大好きで、自分でプラレールをつなげると、寝そべって電車と同じ目線になり、動く様子をじっと見つめていました。
興奮した様子で手足をバタバタさせながら、その喜びを全身で表現していました。
好きと言う気持ちは、本当にその人を成長させてくれるようで、次男は3歳にしてドライバーを使ってプラレールの電池の入れ替えができるようになっていました。
「この子も天才なのでは…?」と私は思っていました。(完全に親バカですね笑)
次男は現在7歳になり、小学校は長男と同じ校区の学校の支援級に通っています。
これからも次男のペースで、ゆっくりと一緒に歩んでいきたいと思っています。
3人目を妊娠:染色体異常の可能性。私の強い思い。
長男が小学1年生、次男が年中児になったときに、3人目の妊娠がわかりました。
妊娠7~8週目くらいに産婦人科に行き、診察を受け、先生に経過を伝えてもらうときでした。
先生のパソコン画面に「病状…」という文字が見えました。
その瞬間、頭が真っ白になりました。
お腹に新しい命がいる喜びを感じていた思考が停止し、ただ不安だけが心を埋め尽くしました。
お腹の子は首にむくみがあり、染色体異常や心疾患のリスクの可能性があることを説明されました。
あまりに突然のことで理解が追いつきませんでした。
自分のこととして受け入れられず、感情があふれて震えながら、待合室で泣き崩れました。
その日の夜、仕事から帰ってきた夫に、病院でのことと私の思いを話しました。
「産んでもいい?産みたい。おろすなんて考えられない。」
おそらく夫も、急なことで混乱していたと思います。
心の中は不安でいっぱいだったかもしれません。
この先どんな生活が待っているのか、まったく想像ができませんでした。
それでも、
「わかった。一緒に頑張って育てよう!」
そう夫が言ってくれたことは、他の何にも変えられない安心につながりました。
産婦人科の先生に紹介された、専門的な病院で一度診察してもらうことになりました。
その頃には、お腹の子は頭も体も手足もはっきり確認でき、ものすごく元気に動いていました。
ますます愛おしくて、「この子のためにも、私がもっとしっかりしなきゃ!」という思いが強くなりました。
「産む」以外の選択肢は私にはなかったので、それ以上の検査は受けず、お腹の子が元気に産まれてくるのを待つことにしました。
それからお腹の子は順調に成長してくれて、どんどん私の心に残っていた恐れを消してくれました。
そして元気いっぱいに産まれてきてくれました。
女の子でした。
現在3歳になり、兄2人とともに逞しく、ときに、私に大人のようなアドバイスをくれるしっかり者に育ってくれています。
あの不安で埋め尽くされた日々があったからこそ、「今」の私がいて、子供たちを何よりも大切に思う気持ちを育ててくれたのだと実感できています。
私が家族を守る!在宅ワークに挑戦
子育てしながら働く!低単価在宅ワーク期
私は、次男が生後3ヶ月を迎えた頃に在宅ワークを始めました。
それまでは、夫の稼ぎと、私が正社員時代に貯めていた貯金を切り崩して生活していましたが、少しずつ貯金が減っていくのが不安で、「何かしなくちゃ」と思ったのがきっかけです。
まだ生活に余裕はあったものの、次男を育てながらできることを始めようと、クラウドワークスに登録しました。
最初の仕事は「折り鶴を50羽作る」でした。
1羽5円、50羽で250円。
これが最初の在宅ワークの給料でした。
正直、「これ、仕事って言えるの?」と思いました。
でも、久しぶりに「お金を稼ぐ」という感覚を味わえたのが、すごく新鮮だったんです。
真面目に折り鶴を作り続けると、それから段階的に新しいお仕事を任せてくれました。
データ入力、受注作業、メール対応など。
どの仕事も単価は低く、長時間作業をしても思うように稼げませんでした。
それでも、「仕事ができる!誰かの役に立ててる!」と思うことで、なんとかモチベーションを保っていました。
社会とのつながりを感じられるのが、何より嬉しかったんです。
しかし、単価はほとんど変わらず、時間を取られるわりに成果が出ず、少しずつ気持ちが疲れていきました。
雇ってもらうしかないのか…、再び会計事務所へ
在宅ワークでの収入だけでは生活の足しにならなかったため、次男が保育園に通い始めたタイミングで、前とは違う会計事務所でパートとして働き始めました。
パートなので、クライアントを担当するわけではなく、監査担当者のサポートとして帳簿入力や決算作業の補助、資料作成などの裏方業務がメインでした。
でも、私にはそれがちょうどよかった。
以前の事務所で、クライアントや上司との関係にトラウマを抱えた私にとっては、この「業務に集中できる環境」はありがたかった。
請求書や領収書を確認しながら月締めをし、年に一度、1年間のクライアントの集大成をまとめる。
数字がピッタリ合うと気持ちが良く、仕事をすればするほど、「やっぱり私はこの仕事が好きなんだ」と実感しました。
監査担当者を全力でサポートすることにやりがいを感じ、たまに差し入れをいただくと、やる気はさらに上がりました(笑)。
正社員になるかという話もありました。
しかし、次男の検査や療育で休まなければならないこともあるし、長男の習い事の送迎もあるため、正社員として働くことは現実的ではなかった。
「このままずっと、この事務所でパートとして働いていくんだ。」と思っていたときでした。
夫の精神崩壊…、人生最大の転機!
私の夫は、建設関係の仕事をしていて、現場仕事がメインでした。
長ければ1年以上、同じ現場に通い続けることもあります。
ある現場で、お客様の要望で納期がずれ、工程も次々と変更に。
夫は朝早くに家を出発し、子供たちが寝静まったあとにしか帰ってこられなくなっていきました。
子供と顔を合わせるのは、唯一休みの日曜日だけ。
そんな生活が続いたある日、夫の現場で事故が起こりました。
転落事故でした。
夫は現場の責任者という立場でもあったため、病院や警察署を行き来していました。
ぐったりして帰ってきた頃には、日付は変わっていました。
大変な現場仕事の上に事故が起きたことで、夫は1ヵ月で体重が10㎏落ちるほどやつれていました。
顔色は悪く、頬はこけ、目の下には深いクマ。
食事もほとんどとれず、ほとんどない気力を振り絞ってなんとか仕事に向かっていました。
そんな状態の旦那を一番近くで見ていて、これまで言えなかった言葉が自然と私の口からこぼれました。
「ありがとう。もういいよ。仕事辞められ。」
私たち家族が生活できていたのは、夫が働いてくれていたから。
だからこそ、言えなかった。
「夫が仕事を辞めたら、家族はどうなるの?」という不安が大きすぎて…。
辛そうな夫を一番近くで見ていたのに…。
でも、もう限界だった。
夫が倒れてしまうかもしれないーーーその恐怖の方が、ずっと大きくなっていた。
やっと言えた。
やっと言ってあげられた。
その瞬間、私の中で何かが変わった。
その言葉が、私にとって大きな転機となりました。
答えは1つ!在宅で月収40万円に挑戦
夫に伝えた言葉は、私自身にも大きな変化をもたらしてくれました。
夫の体調への不安はありましたが、夫の収入がなくなるかもしれないという心配はなくなっていきました。
私が働く!
私が家族を支える!
夫にばかり抱え込ませるのはやめよう!
そう強く思いました。
現在、夫は大変だった現場を離れ、別の職場で働くことで精神的にも落ち着きを取り戻し、体調も回復しました。
でも、また同じことが起こる可能性はある。
次こそはもっと早い段階で夫に「仕事辞められ。」と言ってあげられる自分になりたい!
そして、夫に頼りっぱなしのこの状態を、終わらせたい。
でも…
「子供たちのことを考えると、正社員として働くことは難しい。」
「今やっている経理・会計の仕事が好き。」
「パートでの収入もあるけど、それだけじゃ足りない。」
じゃあ、どうする?
答えは1つだった。
在宅ワークで、収入をあげるしかない!
目標は月収40万円。
この金額は、田舎で家族5人が暮らしていくために最低限必要な金額。
でも、ただ稼ぐだけじゃない。
「私が一家を支える」 そう決めたからこそ、夫にも子どもたちにも安心してもらえる未来を作りたい。
この挑戦の先にあるのは、 「在宅で稼ぎながら、家庭を支える私」 の姿。
このブログを通して、その道のりを記録していきます。
そして、同じように「家庭を守りながら働きたい」と思う人にとってのヒントになれば嬉しいです!
見届けてもらえたら、めちゃくちゃ励みになります!
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
たかみ